ボスニア・ヘルツェゴビナ サラエボ包囲戦 市民の生命線だったトンネルとは?(トンネル博物館)

トンネル博物館

1992年ユーゴ軍に砲撃破壊された民間人コラールさん宅。1993年自身はガレージに小部屋を作って住み、家をトンネル入り口(ブトミル側)として利用することに協力。

ボスニア紛争 サラエボ包囲とは

1991年、旧ユーゴスラビアの構成国だったスロベニアやクロアチアが独立を宣言し、

ユーゴスラビア連邦が崩壊し始めました。

Yugoslavia in 1990

ユーゴ時代の地図

1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言しましたが、

国内にはボシュニャク人(イスラム教徒)セルビア人(正教徒)クロアチア人(カトリック)

三民族が混在していました。これにより、

セルビア人勢力(現スルプスカ共和国に多く住む住人)が独立に反対し、

旧ユーゴスラビア人民軍(JNA)の支援を受けて戦争を開始

ボスニアの首都サラエボは、

セルビア人勢力によって周囲の丘陵地帯から市内を約4年間包囲され、

無差別な砲撃・狙撃により約1万人の民間人が犠牲となりました。

例えば「狙撃手通り(Sniper Alley)」と呼ばれた大通りでは、通行する市民が狙撃手に狙われました。

この包囲戦により水、電気、食料、医薬品の供給が停止。

人々は井戸水や雨水を利用し、わずかな食料を分け合って生き延びなければなりませんでした。

1992年セルビア人勢力から空港を奪還した国連軍の駐留により国連人道支援物資が届きましたが、

セルビア人勢力が妨害することもありました。

サラエボの図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

又、市民が山越えをして運んできた物資を市中心部にいる市民に届けるには

空港を横切らないといけなかったのですが、

国連軍は空港の使用目的を国連の支援物資受け入れだけに限定したので

市民は夜間にこっそり空港を横切るという危険な方法を取らざるを得ず困難に直面していました。

希望のトンネル(Tunnel of Hope)とは?

1992年末、陸軍はこの問題を解決するために極秘プロジェクトとして

空港の下にトンネルを建設することを計画。

1993年1月ドブリンジャの民間防衛隊8人、1日3,4時間、手作業の掘削を開始しました。

悪天候、道具不足、砲撃等により困難を極め一旦作業は中止されましたが

当初この計画を知らされてなかった大統領の耳に入ったことから

人員増員、建設会社の労働者も増員され3交代24時間体制で作業再開。

悩みの地下水の排水や電灯使用も可能になりました。

トンネルの地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして7月末、幅1.5m、長さ800mのトンネルが完成しました。

通行には許可証が必要で、人々は手や背負って

タバコ、石油、弾薬、医薬品、負傷者を運搬していました。

その後レールが敷かれ、5~24台まで増やされました。

大雨になると浸水、排水ポンプが故障することもあり

毎日午前中にメンテナンスが行われ、夜間に人の移動がなされました。

移動は一度に一方向のみ、20人から1000人までの利用があったそうです。

食料はクロアチア方面→イグマン山を越え、

ブトミル側からトンネル経由で市中心部へ運ばれました。

1日平均4000人もの利用があり、通常20分で反対側に到達。

 

両端の出口は狙われるので夜間のトラックはライト無しの運転で

後に電話線や電力供給の高圧線、石油のパイプラインまで引かれていましたが

片側に電線や燃料パイプがある狭いトンネル、時には水中の中を歩くこともあったので

命の危険を伴う移動だったそうです。

このトンネルのおかげで約30万人の命が救えたと言われています。

 

1995年8月、NATO介入、11月にデイトン合意で終戦。

トンネルは使う必要がなくなり荒廃、廃墟となり

解体されましたが、コラール家の人が

トンネルの記憶を維持させるため、使用されたすべての物を保存し

20mだけトンネルを残すことにし内部を博物館として見学できるようにしました。

希望のトンネル

 

 

 

 

 

 

 

 

トンネル博物館へのアクセス

個人で行く場合:オーストリア広場からバス103番に乗り終点(Dobrinja terminal)下車。(20駅約35分)

そこから約2.5キロ歩く。(約34分)1.8BAM。

ツアーに参加する場合:旧市街には旅行会社が複数ありそこで申し込めます。

日本からも申し込めます。

Get your guide:戦争ツアー 半日4時間 約5500円(集合場所は旧市街でわかりやすい、親切)

Viator:サラエボのバラ(公式戦争ツアー)半日4時間 約6500円(博物館入場料15BAM含まれない)

(集合は旧市街だが店舗がないのでわかりにくかった。ガイドさんは良かった。)

どちらもスナイパー通り、トンネル博物館、トレヴベヴィッチ山、ユダヤ人墓地、イエローフォート等

の観光を含む。

館内の様子

トンネル博物館入口

まず入口で「サラエボのバラ」についての説明があります。

(これは迫撃砲弾により死者を出した爆発の跡を赤い樹脂で埋めたものでサラエボのあちこちで散見。)

館内に入ると設計図や当時使用された掘削道具、物品、カート、亡くなった人の名簿

コラールさん宅の様子等の展示があり

動画コーナーでは、サラエボ砲撃の様子、トンネルが使用されていた当時の映像を観ることができます。

僅かに残されたトンネルの中を歩くこともできたのですが、私でも少しかがむくらいなのに

欧米人の背の高い人たちがこの狭いトンネルを時に浸水したところを50㎏の荷物を抱えて

移動していたと想像するとかなり困難だったことがわかります。

当時の運搬の様子 トンネル博物館内1 

ツアー内容

私の参加したViator社のツアーは「戦争体験者が語る」とあったので

当時の生活を体験した老年のガイドさんかと思っていたのですが、実際には35歳くらいの若い人でした。

当時赤ちゃん、両親とサラエボにいて後に家族はスイスに疎開→帰国したとのことで、

体験者と言えばそうなのですが

当時の鮮明な記憶はなく、家族から聞いた話、という点では少し期待外れでした。

でもガイドさんとして大変優秀で、あのスティングのガイドもしたというくらい英語が堪能でした。

さて、まず集合場所から普通乗用車で市内を車から見学

スナイパー通りのホリデイン ホテル

 

 

 

 

 

歴史ある建物の解説をしながらのドライブ、そしてトンネル博物館へ。

次にセルビア人が多く住むスルプスカ共和国に入って、ボスニアとの違いを説明、

オリンピック跡地やスナイパー攻撃がされていた場所、そして

(ナチスホロコーストで虐殺されるまでサラエボではユダヤ人が1.4万ほどいて

その人達のヨーロッパで2番目に大きいと言われる)ユダヤ人墓地を巡り

最後はサラエボの市内が一望できるイエローフォートに行って終了となりました。

スルプスカ共和国との境界線は住宅地の普通の道で、

道の左の番地はラテン文字、右の番地はキリル文字とセルビアカラーの旗がはためくという奇妙な様子に

この国の複雑さを見た思いがしました。

感想

ガイドさんの話はボスニアの歴史

(オスマン帝国→オーストリア天ハンガリー帝国、旧ユーゴスラビア社会主義国)

から市内にある建物の各時代の特徴を説明してくれたり、

現在の国の状況、希望のトンネル、サラエボオリンピックの話、スルプスカ共和国のこと

そして自分の生い立ち(戦争によってどんなことが家族に起こったのか)等

沢山話してくれました。

戦争の傷跡

 

 

 

 

このように現地の人の話を直接聞ける上に行先はどこもサラエボ市郊外、

個人で全て回るのには時間と体力が要るところを

半日で効率よく回れるツアーなので絶対参加した方がいいと思いました。

ただ、時間が4時間しかなく、その短時間に

盛りだくさんの話をできる限り伝えようと頑張ってくださるので

英語がどうしても早口になります。(1日ツアーでもいいくらいの内容)

本来私1名参加だったところ、当日直前にイギリス人カップルが加わったので

ネイティブスピーカーとネイティブくらい英語堪能なガイドさんの会話スピードに

ついていけないことも多々ありました。

(質問ありますか?と言われても、聞いた内容を頭の中で整理しているうちに話は先に進んでしまう…)

参加前に一通り歴史や、ボスニア紛争に関して勉強していましたが、

トンネル博物館については詳しく調べていなかったので焦りました。

これから行かれる人はトンネル博物館の概要、ボスニアの様々なこと

(歴史、戦争、宗教、民族、サッカー)を事前に知ってから行くと、

ガイドさんの話がよりよく理解できると思います。

その他ボスニア・ヘルツェゴビナの話

BIH 地図

連邦国家。複雑な境界線が複雑な民族分布を表している。

今も地雷が残っている地帯。(黄色ライン)外務省HPより。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1995年終戦後、国内はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(ボシュニク人とクロアチア人地域)と

スルプスカ共和国(セルビア人地域)からなる連邦国家となっています。

そして北東部にはブルチコ行政区というどちらにも属さない緩衝地帯があります。

上の右図を見るとその境界線に沿って今も地雷残存している可能性があるようです。

大統領は3民族代表の3人、8か月ごとの輪番制

教育は一つ屋根の下に2つの学校

つまり1つの学校の中でそれぞれの民族によって教育が異なっているとのこと。(高校まで無料)

ここからはガイドのマックさんの話ですが

公には失業率は16%となっているが実際は28%くらいでブラックマーケットに流れる人もいるとか。

医療はほぼ無料で出産もタダ。

(チャットGTPによるとバルカン半島でもサッカーは大人気スポーツですが

日本と違って娯楽ではなく

民族&アイデンティティーを表し戦争や民族対立と直結するもので、

加えて貧困からの脱却、海外移住のチャンスとして子供はサッカー選手を目指すらしいのですが)

マックさんのお兄さんはサッカー選手として有望だったのでサッカーでハワイに留学、

その後アメリカ本土で銀行勤務し成功されていて

マックさんも度々アメリカに行ってる、だから英語堪能なんだと納得。

そんな海外にパイプを持つマックさん、今はボスニアが好きでサラエボにいますが、

子供の教育を考えると将来が心配なので、子供の為に海外移住も検討にいれると話していました。

実際ボスニアから今も海外に移住する人は多いそうです。

それと入れ違いにバングラデシュ等海外からの移民も多いとのこと。

チャットGTPによるとボスニアとコソボの紛争で推定200万人以上が難民となったそうです。

ボシュニャク人の7割がクロアチアやセルビア、西ヨーロッパ(ドイツ・オーストリア・スウェーデン等)へ

クロアチア人は約40万人が、セルビア人の約30万人が国外へ移住。

コソボのアルバニア人は隣国アルバニアや西ヨーロッパへ約40万人もの人が移動を余儀なくされたとか

その後帰国したかどうかのはっきりした人数は把握できてないようですが

とにかく大変多くの人が家を追われ、国外に避難したことに驚きました。

現在西ヨーロッパ、特にドイツフランス、イタリアや北欧で難民問題が深刻になっていますが

それはシリア等の中東からの戦争難民だけかと思っていました。

ですがバルカン半島からもこれだけ多くの人が流入していたとは!!

もうドイツは以前からクルド人出稼ぎ労働者が沢山いた上にこの様なバルカン半島からの難民、

そして中東からの難民も受け入れ手厚く保護してきました。

国境が地続きということは敵が入ってきやすく、又人の出入りが激しくなる・・

戦争の繰り返し、民族の混合と分裂。歴史を見れば一目瞭然!

海に囲まれた日本は世界で稀な国。地政学的に恵まれ本当に有難いと感じます。

最近日本への不法移民や政府による外国人誘致の政策がありますが、

他国で起きている問題を見て、今後の日本はどうあるべきか、考えて欲しいものです。

優秀なサッカー選手を多数輩出している旧ユーゴ地域とアルバニア。

1990年代の戦争後、他民族が一丸となって戦えなくなった選手たちは

政治に翻弄され、利用され、海外に活躍の場を探していきます。

セルビアは外交政策の失敗やアメリカの思惑から一方的に「悪者」の

レッテルを貼られ、その影響は選手たちにも及び大変苦労したとのこと。

サッカーが政治に密接に関わっていることを木村氏の著書で知りました。↓

戦争について視点を変えてくれた本:「戦争広告代理店」

ボスニア・ヘルツェゴビナ側がいち早くアメリカの広告代理店を利用したことで

「ボスニアだけが可哀そう、セルビアは酷い!」という

イメージを世界に植え付けました。

確かにセルビア勢力は許されないことをしましたが、セルビア側だけがしていたわけでもありません。

国際世論は片方の言い分だけ聞いてもう片方の言い分を真剣に聞こうとはしなかった

とても受け入れがたい要求をセルビアに突きつけ、

それが受け入れられないならとNATO軍の攻撃・・

この本にはその具体的な方法や流れの詳細が記してあり、戦争は情報戦、

メディアをいかにうまく操作するかで勝敗が決まるということを教えてくれました。

(戦争だけでなく、もちろんビジネスも)

この手法はボスニア紛争だけでなく、

過去の湾岸戦争イラン・イラク戦争等でも用いられ

当時アメリカの都合のよい情報操作をしていたことが既に明らかになっています。

ウクライナ戦争も西側メディアの偏った報道しかされませんし

イスラエル・パレスチナ戦争もそう。

●裏で何が行われているかを自分で考える

●オールドメディアの言うことだけを鵜呑みにしない、

●自分で情報を取りに行く

それを教えてくれた本。↓旧ユーゴ諸国を旅するなら是非ご一読を!

 

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希望のトンネル